国王神社とは

由緒・歴史

由緒

國王神社は、平将門公・終焉の地に静かに佇む古社です。

将門公の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが神社の創建であり、父の33回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)を御神体に戴いております。

天禄3年(972年)、霊夢を得た如蔵尼は、急いで奥州から下総に帰郷します。父の最期の地に戻った如蔵尼は、傍の林の中より怪木を見つけて、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。
そして、春2月14日には祠を建て「国王大明神」の神号を奉りました。
天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、創建より1040年に亘り今日まで信仰を集めています。

『神社分限帳』には、“平将門が討たれた所にその霊を祀った”と記述があります。
天慶3年2月14日、藤原秀郷・平貞盛連合軍との戦いの最中、流れ矢に当たって落命した将門公の「終焉の地」が、この境内であると伝えられているのです。

歴史

祭神に将門公を戴く國王神社の歴史は、決して平坦なものではありませんでした。
桓武天皇の5代目の孫でありながら、関東の地で兵を挙げ、新皇を名乗ったことから「朝敵」と見做された将門公は、表立って敬うことを許されない存在でした。

将門公の功績が朝廷に伝えられて、朝敵の認識が解かれたのは、時代が下った徳川幕府のときです。
武勇の神として祀られた神田神社は、江戸総鎮守として江戸の鬼門を守り続けます。

しかしその後、明治新政府によって、過去に朝敵であったことが再び問題視されるようになります。
将門公は、政府によって神田神社の祭神から外されてしまうのです。
國王神社でも、供養の行事として始まった十四日講を、信仰する氏子の家でひっそりと行わなければならなくなりました。それから、将門公の評価が回復するまでには、第二次大戦を経た昭和末期まで待たねばなりませんでした。

戦後、旧・岩井市の市制施行を期に、郷土の英雄を偲ぶ「将門まつり」が始まります。
4年後、大河ドラマによって将門公の生涯・闘いが広く国民の知るところとなります。
これがきっかけとなり、さらに8年を経て、明治政府によって遷座させられていた将門公が、神田明神の祭神として復帰を果たしたのです。

時代とともに、評価が揺れ動いた将門公。
京から遥か東国で、農民と共に生き、共に開拓し、共に闘った、数々の軌跡。
坂東武者・将門公の“弱きを助け強きを挫く”精神が、これからも永く慕われ続けることは間違いありません。

坂東市観光協会
国王神社鎮座の地、坂東市による
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